09.「かけがえのない”ずるい経験”。そして震災ボランティアへ」

 学生がいきなりブラジルで「新聞記者になる」――。現地の日本人、日系人を主な読者とした邦字新聞の「ニッケイ新聞社」が僕の研修先でした。

 大学の専攻は商学。何の経験もない中で日系社会を対象に研修2日目から取材し、記事の締め切り時間に追われ、これまでにない緊張感と責任を感じる現場でした。自分の記事が初掲載された時は「嬉しさ」より間違いがあったらどうしようという「怖さ」が大きかったのを覚えています。その日は電話が鳴るたびに、苦情ではないかと身構えていました。一人での出張は当たり前、ブラジルは国土も大きく、夜行バスは12時間以上もざら。日帰りでそのまま出勤という日もあり、スケジュールはハードなものでした。取材対象も広く、婦人会のバザーから総領事、大使、県知事、大学教授、日系企業の社長、軍関係者など600人以上の方を取材し、年間で550本以上の記事を世に出す事ができました。

 ダメな自分を鍛えたい、それだけの理由で研修に応募した僕に、協会側は厳しい研修先を選んでくれました。研修中は当然沢山怒られましたがそれが今の僕の財産です。編集長はじめ記者の方々が僕の拙い文章を修正して下さり、初めて550という記事が人の目に触れることができました。その数には惜しみないご指導とお心づかいが詰まっています。1年限定であるにも関わらず、そんな環境に恵まれて、存在も知らなかった新たな世界に真正面から飛び込むことができました。これだけの経験ができたのは“ずるい”といえるぐらい貴重なものでした。

 また、取材を通じて「明治」を感じさせる移住者の方々からは日本への強い愛国心を感じました。国を想う気持はこれまで意識したこともありませんでした。しかし、それがなければ国、社会に対する問題意識が無くなってしまうのではないかと思います。その経験を通じ、これから社会人となっていく中で自分ができる事は何だろうと考えるようになりました。ブラジルは今その経済成長が世界から注目を浴びています。日本とブラジルは互いの弱点を補完しうる関係にあり、100年の日系社会の歴史で勝ち得た日本への信頼、絆があります。しかし日本人にとってブラジルは遠く、特に若者は「内向き」と言われて海外、ブラジルにまで目が届きにくいのかも知れません。僕はこれからもブラジルに飛び込み、2国間を結ぶ仕事をしたいと思っています。そうして日本でブラジルの事を少しでも広めてゆき、お世話になった方々に少しでも恩返しができる人間になっていこうと思っています。

ブラジルで震災を知る。”繋がり”が後押ししてくれボランティアへ

 3月11日、国難ともいえる未曾有の災害を僕はブラジルで知りました。日本人街では日本語の号外が配られ、これまでにない緊張感が走る新聞社にはブラジルメディアが連日押し掛けました。断片的にしか伝わらない情報や増える死者の数に「日本はどうなっているんだ」と不安がつのるばかりで、心ここに在らずといった状態でした。しかし、その1週間後、関西に帰ると、ブラジルで感じた「日本は大丈夫か」という気持ちは、帰国後「東北は大丈夫か」になりかけていました。1つの単位で日本を見たブラジルの頃より視野が狭くなってしまい、東北が遠く感じている自分に驚きました。その時、自分にできる限りの事をしようと決めました。しかし、何かしたいがどうしたら分からない。そんな自分を導いてくれたのが協会の繋がりでした。被災地ボランティアをするOGの方の切実な声により、必要物資を呼び掛け、物資の購入、配送、資金援助などOBOGの方々の支援が始まりました。「ブラジルでの1年」という共有経験が世代を超え結束、力を生んだのです。

 微力ながらその活動に参加させていただくと共に、僕もボランティアとして現地で活動しました。それは自分の生活がある中でもできる限りを尽くそうとする先輩の方々の姿を見たからです。小さな力にしかなれませんでしたが、その勇気と行動力が生まれたのは「自分は社会に対して何ができるのか」と考えたブラジルでの経験と交流協会の繋がりのおかげと言えます。
 研修留学に理解を示してくれ、僕の書いた記事を全てスクラップしてくれた両親、沢山の有難い忠告をして下さった交流協会の皆さま、研修生を受け入れるというリスクを覚悟で、ふがいない僕の面倒を見て下さったニッケイ新聞社の皆様に心から感謝致します。そして何よりも、今回の震災で被災された方々に心からお見舞い申し上げると共に、一刻でも早い復興をお祈り申しあげます。


宇野秀郎 Uno Hideo

1987年、大阪府出身。2011年度研修生。サンパウロ州サンパウロ市/日系新聞社で記者として研修。ブラジル研修実行委員関西エリア担当。

Back to Top