02.「現実と向き合う、現実をつかむ」

「学生時代ブラジルに住んで、仕事でブラジルに戻った」というと、決まって「ブラジル好きなんですね?」「もうブラキチですね?」と言われる。でも時々、ブラジルのどこが好きなんだろう?と自問する。

街の雰囲気でいえば、サンパウロよりブエノスアイレス(アルゼンチン)の方が好きだ。別にサンバやMPBを聞きまくってるわけじゃない。ブラジル料理より日本食が好きだし。砂浜で水遊びしてビールを飲むのは気楽で楽しいけれど、日本でだってそんなのはできる。よく分からない。でも、これだけはいえる。僕の人生にとってブラジルは特別な国になった。そんな話をしたい。

ブラジルに初めて来たのは15年前だ。ずいぶん昔のようだけれど、今でもはっきり思い出せる風景がある。
研修先はサンパウロ近郊の町の市役所だった。ファベーラと呼ばれるスラム街の整備について知りたい、と願った。まずファベーラに行ってみたい、というと、市職員が連れて行ってくれた。車はフォルクスワーゲンのビートル(ブラジルではフスカと呼ばれる)。もちろん旧型で、サスが最悪で路面のデコボコをもろに拾った。郊外の小山の、舗装されていない赤茶けた泥道の坂を登る。風景がどんどんみすぼらしく変わっていく。レンガやブロックを積んだだけの粗末な家、破れたTシャツ、サンダル履きの子どもたち。
フスカの中では、なぜかThe POLICEが流れていた。「Message in a bottle」だった。

I’ll send an SOS to the world/I’ll send an SOS to the world

小山の頂上に着いてフスカを降りた。足下に無数のバラックが広がっていた。空は青く晴れて、足元はぬかるんでいた。頭の中にまだSOSの連呼が響いていた。
ああ、ここに「現実」がある--。そう思った。
今まで日本で学生をやっていた自分にとって、社会の現実とはテレビで見たり新聞・雑誌で知るものだった。自分の暮らしは、自分にとって「現実」ではなかった。
でも、ここには日本のどんなメディアでも報じられていない、自分しか見ていない「現実」があった。
この現実をもっと知りたい。そして、この景色を見たことのない人に、この現実を伝えたい。そう思った。
中学・高校・大学・就職--。日本の社会が敷いた(強いた)レールを自らいったん外れてみて、初めてそこに自分が実感できる「現実」があった。日本に帰ってからも、あの風景はずっと僕の中に残っていた。

僕が学生だった15年前に比べ、インターネットと携帯電話の急速な発展で、情報は安易に手に入るようになった。でも、そこにみんな「現実」を実感できているのだろうか。バーチャルであふれる日本で、「現実」をつかみたいともがいている若者は今も多くいると思う。
そんな人たちに、あの日の僕と同じように感じられる風景や体験を得てほしいと思う。
ブラジルは、そのきっかけになりうる場所だと思っている。


石田 博士 Hiroshi Ishida

1970年、岡山県出身。筑波大学社会学類卒。大学在学中の92年、日本ブラジル交流協会の研修留学制度に参加し、サンパウロ近郊の市役所や邦字紙「日伯毎日新聞」(現ニッケイ新聞)などで研修する。94年朝日新聞社入社。横浜支局、東京本社社会部をへて2005年9月からサンパウロ支局長。ペルー日本大使公邸占拠事件やサッカー・ワールドカップ日韓大会、アテネ五輪、フジモリ元ペルー大統領の送還問題などを取材してきた。

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