06.「偶然の再会」

「じゃ、皆さん。サウージ(乾杯)!!」
「うわっ 渡辺先生!!!」。
テレビ画面に大写しになった渡辺先生の顔に、一瞬にして背筋が伸びた。偶然つけたスポーツニュース。現横浜マリノス(日本代表MF)の山瀬功治さんの特集で、「山瀬さんは中学時代はブラジルに留学されてたんですよね」「その中学時代の映像を見つけてきました~~!」と番組で流された、なにやら祝勝会を撮影したビデオでの1コマ。それはもう本当にびっくりです。

 映像は1995年、舞台はサンパウロ州サンベルナルド・ド・カンポ市のアルモニア学生寮で撮影されたもの。この英語で言うハーモニーの名を冠したアルモニア学生寮。当時、親元を離れて勉強する日系人師弟や、日本からのサッカー留学生、そして僕ら研修生が住んでいました。
あの時の、あの幼い中学生が山瀬さんだったのか!と驚く以上に、ブラジルでお世話になった渡辺先生の映像に、たまたまつけたテレビで、出会うなんてと、「ブラジルに行った人は、『偶然出会い運』が驚異的に上がる」という都市伝説を思い出しつつ、ブラジル研修時代・・特に渡辺先生との思い出がよみがえってきました。

ワタナベセンセイ

そのテレビ番組からさかのぼること7、8年前の1995年、社団法人日本ブラジル交流協会の第15期研修生として、僕は前述のサンベルナルド・ド・カンポ市の市役所&聾学校で研修生活をおくっていました。午前中は聾学校・午後は市役所の教育局特殊教育課、研修が終わればアルモニア学生寮に帰るという日々。
アルモニア学生寮について簡単に説明しておくと・・・地方に住む、日系社会の師弟がサンパウロで教育を受けるためにできた由緒正しき学生寮で、設立は1953年9月。当時は男子寮・女子寮あわせて80人くらいが住んでいました。
その館長を勤められていたのが渡辺 次雄先生。先生は1960年に南米産業開発青年隊の一員としてブラジルに移民。農業、日本語放送、日本語教師と様々な場所で活躍されたあと1983年よりアルモニア学生寮館長として、「おばさん」(先生の奥さん)と一緒にアルモニア学生寮の運営に尽力されていました。
夜な夜な先生の家でお酒(なぜか必ずCHIVAS REGAL。)を飲みながら、「巧は何がしたいんじゃ」「やりたかったらやったらいい」「お前の先輩はこんなことしとったぞ」、と叱咤激励されながら、でも、先生が持つ移民一世のすごみのあるオーラの前ではいつも借りてきた猫。先生に「自分ってどんな人間に写ってますか」「妙に大人びていて、若さがない」と痛烈な一言をいただいたり・・・。
自分が傷つかないように器用に生きていることを見抜いての先生のお言葉。本当に頭があがりませんでした。色々言われるのが億劫になり、先生の家から足が遠のいた時期もありましたが。
先生は日本から来た、しがない若者に「自分の可能性に自分で壁をつくるな」ということを、ご自分の移民話や教育の話で気づかせてくれようとしてたんだなと、わかるようになったのはブラジル帰国後ずいぶんたってからでした。

Obrigado 先生!

先生がお亡くなりになったのは2003年。2004年7月、ブラジルに6年ぶりに渡伯。おばさんにお墓参りに連れいってもらいました。先生の墓を前にして、本当にもう話をすることができないんだと、実感が沸いていきました。
卒業旅行で、ブラジルに行った際に偶然おみやげで持って行った「いかとんび」を「いかのとんびだ~!!」と顔をくしゃくしゃにして喜ばれたこと(好物とは知らなかった)。来日されたときに浅草で夕食をご一緒し、先生と下ネタで盛り上がれたこと、先生が払おうとするのを強引に僕が払い「巧も大人になったんじゃ~」と喜んでくれたこと。なによりも先生と二人で酒を飲んだ日々が一気に脳裏にうかんできました。

先生、ありがとうございました。

今社会人11年目。今の自分、先生にやっぱり叱られるかな、少しは認めてもらえるだろうか、フィールドは若干違えど、先生と同じ「教育」という分野で仕事をしながら、時々そんなこと考えます。なんかうまく表現できませんが、ブラジルで「でっかいもの」、先生からもらってしまいました。
ブラジル行けば、ブラジルのモノ・コト自体、いろいろ惹かれるものとたくさん出会えます(音楽だったり、サッカーだったり、自然だったり)。でもそれ以上に研修生として行けば、個人ではなかなか実現しないような強烈な「人」との出会いが待ってます。僕にとっては渡辺先生との出会い。そんな出会い、多くの人にしてもらいたいと思っています。みなさん、ブラジルへ。


河野巧 Takumi Kawano

大分県出身。1995年、ブラジル、サンパウロ州サンベルナルド・ド・カンポ市の市役所/聾学校にて研修。帰国後教育系出版社に勤務。趣味はブラジル音楽演奏。

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